誕生 〜 ヴィチェンツァ
〜 大怪我
1967年 2月18日 |
イタリア共和国 ヴェネト州 カルドーニョ村 バッジョ家の8人兄弟の3男として誕生 |
1976年 - 9歳 |
カルドーニョのプルチーニ ( アマチュアのジュニア・チーム
) に入団 監督は、ピエトロ・ゼネーレ |
1979年 - 12歳 |
カルドーニョのチームで、42ゴール20アシストを決める カルドーニョ VS レバァーの試合で、6ゴールを奪う・結果は7-0 |
1980年 - 13歳6ヶ月 |
カルドーニョにロベルト・バッジョ少年ありという噂が広まり プロチーム・ヴィチェンツァのヴェネト州選手発掘担当の アントニオ・モーロ氏の目にとまる モーロ氏は、スカウトのアントニオ・カルディーロ氏にバッジョ少年の獲得を要請 しかし当初カルディーロ氏はバッジョ少年の獲得に 余り乗り気でなかったようであるが 結局モーロ氏と父親のフィオリンド氏や知り合いの ヴィチェンツァチーム関係者に よるカルディーロ氏への強い勧めが実りバッジョ少年は 22人の候補生の一員として ヴィチェンツァ・セリエCの入団テストを受けれる事となった 後にバッジョは、この時の模様を 「夏の暑い日でした。 10分間の短いテスト試合で2ゴール決めたんです」 「モ―ロ氏は、私に関して良いレポ―トを書いてくれたと思います しかし、ヴィチェンツァのチ―ム・ドクタ―の下で働いていた 女性が口添えをしてくれたおかげなんです」 と語っている |
セリエC - VICENZAのジュニアチーム ( トップ・チ―ム
) へ移籍金50万リラで移籍 |
ヴィチェンツァ に移籍したバッジョだったが、13歳と6ヶ月のため14歳までは ゲ―ムに出られないというイタリアの規定のため 練習の日々が約6ヶ月続いた。 14歳になると同時に、ゲ―ムに出場する |
この時バッジョ少年の他にも2名ヴィチェンツァに移籍したが 後に3人は揃って怪我を負う 結局この怪我を乗り越えられたのはバッジョ少年だけであった・・ |
当時の監督 ジュリオ・サボーイ氏はバッジョ少年に「ジーコ」と愛称を付ける |
ヴィチェンツァ入りしたバッジョ少年は暫らくして父親が買ってくれた ベスパで練習場に通っていました |
1982年 - 2月 |
ベロネッロでのヴェネト州選抜としてリゴーリア州選抜との 試合中に左膝の半月板、じん帯を負傷する 手術と1ヶ月半の入院を必要とした |
中学を卒業後、将来の妻となる少女に初めて声をかける 彼女は、同じ中学校で、クラスは別 家は100m程しか離れていない所に住んでいた バッジョは、ずっと彼女の事が気になっていたが 話しをする勇気がなかったと語っている バッジョは、少女がスク―タ―で通るのを見て 口笛で呼び止めて駈け寄り話しかけたそうです (^_^) |
1983年 |
セリエC1 プレ・シーズンマッチ 対ヴェロ―ナ戦で初出場 |
6月5日 |
セリエC1 対ブレシア戦 ( ピアチェンツァ戦 ?? ) で公式戦プロデヴューを果たす ( 結果は 0−1 の敗戦 ) |
1982-83-84の2シーズンは若すぎるとの理由と怪我で 6試合1得点にとどまる |
対 ブレシア戦で PK を決め、セリエC1 初ゴ―ル |
この頃バッジョの将来に大きな役割を果たす M氏と出会う |
1984年2月15日 - 16歳 |
16歳以下のイタリア代表として対ユーゴスラビア戦 ( 1-1 ) でU-16代表デヴュー |
1985年 |
翌 84-85シーズンは、29試合12得点を決める。 月給は30万リラ |
1月9日 - 17歳 |
イタリア・ユース代表デヴューのギリシャ戦
( 3-0 ) で1得点を挙げる この頃から、バッジョにセリエAの サンプドリア ・ ユヴェントス ・ フィオレンティ ーナ の各チームからオファーが届きだす |
5月3日 - 18歳 |
セリエA フィオレンティーナ へ移籍が決定する移籍金28億リラ |
5月5日 |
セリエC1 リミニ VS ヴィチェンツァ戦でゴールを決めた 後の前半終了間際に右膝十字靭帯断裂の大怪我を負う この時のリミニの監督が、アリゴ・サッキ氏 |
ゲ―ム開始直後の前半3分にバッジョはゴ―ルを決め
1 - 0 とする その直後、バッジョはゴ―ルを決めた喜びで リミニの選手を執拗に追った そしてスライディング・タックルをした時に 右足に全体重を載せ腰を捻ってしまい 右足に怪我をしてしまう 強烈な痛みは、1分程続き消えた しかし、1時間後に膝は腫れ上がりだす 帰宅し3〜4日安静にして過ごしました その後、練習場で走ってみると普通だったので バッジョはボ―ルを蹴ってしまいました ボ―ルを蹴った瞬間「変な音」がしました 4週間後に、関節鏡で診断 結果は、右膝十字靭帯断烈 当時は、95% が即引退という重症の怪我でした 医療事態も、今日とは全く違い知識も器具もなかった時代の中でした |
6月5日 |
フランス・サンテチェンヌで整形外科の権威 ブスケ教授の手術を受ける |
手術は、靭帯が無くなっていたので頚骨に穴をあけ、近くの腱を通した 220針を縫う手術となった 術後のリハビリは、バッジョにとって相当キツイものとなった またバッジョは、ある種の薬にたいしてアレルギ―体質があるため 鎮静剤・炎症止めが効かないため、さらに辛いものとなった 薬も飲めないバッジョは、食事も取らず、眠りもせず、ただ涙にくれる日々を 過ごし、2週間で12kgも痩せてしまっていた その後、バッジョは最悪のシナリオを一切考えず ただ良くなる事だけを、再びプレ―する事だけを信じリハビリに励んだ しかし、権威ある医師は全てバッジョの怪我からの回復に否定的であった |